暑くてやってられないっすね。こんなに暑くて、梅雨も終わり、もはや夏本番だというのに、こういう春のアルバムの話をするというのはどうなんだろう。ただ、インターネットはある意味では季節というものを飛び越える力がある。と、言えば聞こえはいいが、ネットは、あらゆるものの属性を否定してしまう力があるわけだ。この文章は7月12日に書かれたもの、というか、
正確に言えば、7月12日にネット上で公開されたもの、だ。ただ、それだけのこと、になってしまう。7月12日である意味はほとんど何もなくなってしまうのだ。たとえば来年の3月11日にこの文章を読んで、何かを思う人だっているかもしれない。たとえば曽我部恵一のことをまったく知らない人がこの文章を読んで曽我部恵一の音楽を聴くかもしれない。そちらのほう、光の射すほう、に、期待をしたいじゃないか、という話です。ただ、「コンピュータはバカを作り出す」と言われれば、それもまた、
そうだよな、とも思うんだけど。

あなたにとっての曽我部恵一とは、どんなミュージシャンだろうか? その答えを、隣にいる人間と語り合って欲しい。TLにいる人々と、でもいい。たぶん、曽我部恵一というミュージシャンは、100人いたら、100人それぞれの捉え方があるだろうから、とても面白いと思う。これに関しては先日書いたくるりにしてもそうだ。そのフットワークの軽い活動にしても、音楽性にしても、これほど自由に様々なジャンルを横断し、多様なコラボレートを披露してきたミュージシャンというのは、特に日本の2000年代という括りで見ると、本当に希少である。率直に言えば、まだまだ曽我部恵一は過小評価されていると思う。

日本人にとっての2011年の春。それがどんなものだったのか、違いはあるにしても、忘れられないものになってしまった、というところは、誰にでも共通しているだろう。人々にとっての春とは、2010年まではどのような季節のことだったか。出会いと別れの季節だろうか。終わりと始まりの季節だろうか。とはいえ、どんな印象をもっていようとも、1年が経てば誰にでも平等にやってくることに代わりはない。春はどんな形であれ、勝手にあちらからやってくるものだ。

弾き語りアルバムだった『けいちゃん』以来の新譜は、春アルバムの様相を呈した、金字塔のような作品だ。曽我部恵一にとって2000年代は、挑戦と実験の季節だった。そんな季節を終えた彼の削ぎ落とされた表現、その最初の結晶が『PINK』だと言える。だからこそ今作での曽我部恵一は、春の訪れを穏やかに感じているのかもしれない。

金字塔とは言ったものの、音楽的には、これまでに発表された作品群と比べても大きな変化はない。柔らかな肌触りのアコースティック・ギターに乗せて歌われる楽曲や、木暮晋也や伊賀航、北山ゆう子といった気心の知れたプレイヤとともにバンド形態で演奏される楽曲、打ち込みを使った楽曲など。集大成的な作品とも取れるかもしれないが、それらは逆に言えば、彼がいつもやってきたことでもある。

2001年にソロでのライヴ活動が始まり、シングル『ギター』のリリースがあったことから、今作はソロ10周年の作品とされている。10年間でソロとして8枚のアルバムを作りながらも、曽我部恵一BANDや曽我部恵一ランデヴーバンドはもちろん、サニーデイ・サービスとしてもアルバムを制作し、その他にも鈴木慶一『ヘイト船長とラヴ航海士』でのプロデュース・ワークや、Hiroshi Watanabe feat. Keiichi Sokabe『Life,Love』へのヴォーカルとしての参加など、そのディスコグラフィは膨大な数になる。

これだけリリース数の多い彼が、このタイミングで「曽我部恵一としての金字塔」を作り上げることができたのは何故だろうか。その要因は歌である。様々な形でリリースを重ね、常にアウト・プットを変容させてきたことにより、歌い手として追い求めるものが削ぎ落とされていった。中でも昨年のサニーデイ・サービス復活作、『本日は晴天なり』のリリースとそのツアーは大きいだろう。ソロ、ソカバン、ランデヴーバンドは、あくまで曽我部恵一という名を冠した表現であるのに対し、サニーデイ・サービスでの曽我部は、当たり前だが、3ピース・バンドのギター・ヴォーカルだからだ。

数ある作品群の中でも、ここまで歌が音楽の核になっている作品は、実はなかったかもしれない。前作である全編弾き語りの『けいちゃん』のほうが、歌が核だったんじゃないかと言われそうだが、弾き語りはあくまで弾き語りなので、『けいちゃん』は、「歌とアコースティック・ギター」の作品だろう。弾き語りなどの制約もない中で、いつも通りの曽我部恵一を聴かせながら、歌を中心に置いたことでこの作品は金字塔となったのだ。上記した流れの中で、その表現の内、歌の占める割合が上がるのは、自然と言えば自然だ。歌い手としての表現を追い求めることに自然に行き着いたからこそ、音も、フラットでピュアな仕上がりになったとも言える。そうして歌に比重を置いた中でのグレッグ・カルビによるマスタリングが、完全に功を奏している。最近の日本人アーティストで言えば、トクマルシューゴ『ポート・エントロピー』も彼の仕事である。全体に柔らかで角がなく優しい。心にそっと寄り添うような音で、まさしく春の訪れを感じさせる暖かな仕上がりだ。

曽我部は自身のホームページ(http://d.hatena.ne.jp/sokabekeiichi_diary/20110314)で、

ぼくにできることは、否、ぼくにしかできないことは、被災された方々を言葉や行動で勇気づけることではなく、お金を寄付することでもなく、情報を提供することでもなく、ただただ、『ぼくのこの音楽を届けること』だけだと考えます

と、言っている。

3月11日の震災に対して、ここまで表現者として的確な言葉を届けてくれた人もいなかったように思う。我々が音楽家に求めるものとは、どんな状況であれ、「いい音楽」に違いなのである。そう言える彼だからこその、研ぎすまされたポップ・ミュージック集。すべての日本人が「春を待つ人」である2011年という今に、これ以上必要なものが僕らにあるだろうか。