なんだか最近TwitterのTLにやたらと雑誌や本の話、もっと言うと紙媒体の話が多いように思う。今年はWebのトレンドとして、Webメディアが流行って、それとの比較として注目されたというのもありそうだ。ぼくは雑誌編集者をやっていたので、もう、問答無用に紙が好きだ。どうも、くいしん(@Quishin)です。

それはどういうことか、ってのを少し考えてみた。つまりその、「紙っていいよね」というのは、「文脈を欲しがりだした」ってことなんじゃないかと思う。

YouTubeでロックは時代を失った

YouTubeの登場で、ロックという音楽が、時代性を失ったってのはよく言われていることだ。簡単に言うと、1960年代のビートルズも、1970年代のレッド・ツェッペリンも、1980年代のニュー・オーダーも、1990年代のオアシスも、2000年代のアジカンも、2010年代のゲスの極み乙女。も、同じように聴けてしまう。だからそこにどれだけの時間の差があるか、歴史があるのか、そして、どういった「文脈」なのかが、関係なくなった、または無視されるようになってしまったという話だ。

そこには、「アイドルの音楽」と「ロック」とかっていう差異さえ感じることなく音楽を聴いている人がたくさんいる。そんなことはどうでもいいとされている。YouTubeの枠に収まれば、すべては並列。プロもアマも並列だ。これは、大手出版社が運営するWebメディアとものを書く上では素人と思われてきたブロガーが書くブログが並列に取り上げられることも同じだ。

スマホが出てきて数年経った今では、その反動として「いやいやもっと整理しといてくださいよ」という要求が見えてきた。それがGunosy、SmartNews、アンテナなどのキュレーション系のアプリだったりする。

Web上には無限のアーカイブが存在する

そういった状況で、さらにただ情報を整理してまとめるだけではなくて、「色付け」も大事だと言われ始めた。雑誌についても、昔からよく「雑誌の色」とかって言われ方をしてたのがそれだ。「前後の流れとかが重要で、このままだとそれがなくなっちゃうから、それはそれでいいんだけど、文脈があったほうが楽しい場合もあるよね」と言い出している人たちがたくさん出てきた。コンテクストデザイナーを名乗る高木新平さんなんかもそうじゃないだろうか。だってコンテクスト=文脈を専門に取り扱うよ、と言っている。ぼくが好きなブロガーの方々もしきりに「文脈」とか「コンテクスト」って単語を使っているように思う。

参照:もしもぼくが、社会的文脈を考える“コンテクストデザイナー”を名乗ったら

参照:「コンテクスト・文脈って何?」「ああ、ファンからもっと愛してもらうために必要なアレだよ」

参照:バイラルメディアに対する違和感の理由と、”親近感”というハイコンテクストの可能性。

文脈と言えば雑誌

雑誌というのは、ある専門的な知識をもった集団が、一般のあるターゲット層に向けて、情報を繋ぎあわせて紹介する、というものだ。いわば「文脈づくりのプロ集団」というわけだ。人間はたいていの場合、受動的で、なんでもかんでも受け身だ。「自分で情報を集めていく」ということがまずハードルが高い。いい具合にまとめてもらったほうが楽というわけだ。そこに、IT関連、Web関連の人たちが一気に気づいて、これは重要だぞ、と言い出したのがちょうど2014年なんじゃないかと思う。

で、なんで文脈必要なの?

文脈がなくなっていく、いらなくなったと思われた世の中で、それでも文脈を取り戻そうとしている人たちがたくさんいる。なぜなら文脈がなければ、なぜ自分たちがここ(国とか地域)にいて、こうして生きているのか、ということをきちんと確認できないからだ。気づいている人だけが、すでに文脈を紡ぎ出している。どうも、くいしん(@Quishin)でした。読んでくれた方ありがとうございました。ツイッター(@Quishin)はフォローお気軽に!

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