「人生は大喜利だ」というのはぼくが言った名言ですが(猛爆)、「コント社会人」という感覚ってありませんか? どうも、くいしん(@Quishin)です。

これ、伝わりますかね。お笑いのコンビが明転からの第一声、「コント! コンビニ店員!」とか言うやつです。ぼくは「社会人」とかいうやつは、コントでやればいいと思ってるんですよ。通勤の満員電車が辛いとか、人間関係がしんどいとかいろいろ言う人おりますけれども、コントだったら笑って過ごせるじゃないですか? 言ってしまえば、社会人をやるというのは、コントです。「コント社会人」を演じていると、辛いことや苦しいことがあっても「コントなんで」ってことになる。

電話を取るとか、書類のコピーを取るとか、最初は上手くできないですよ。カラー、用紙サイズ、両面印刷、ホチキスの位置、こんなにいろいろボタン押さなくちゃいけないのかよ、と、誰でも思いますよ。

お茶なんか出さなきゃいけないのかよ、と思う人もいるかもしれない。でも、お茶を出すときに上席とその取引先がどんな話をしているのか、これはどういった意味の打ち合わせなのか、って考えることによって得られることって無限にあるんですよ。それもこれも、コントという一設定の中で生きる自分っていうことでちょっとだけ俯瞰して見てあげれば、簡単に視野は広がると思う。

それに似たものとして自分の中に凄くしっかり根付いているのは、「自分の本体は◯◯」という感覚がない、ってことです。逆に言えば、今で言うなら「インターネットが好きな人」というキャラクターに憑依して、憑依したまま生きているような感覚が常にあります。

こういう感覚をもっていると、自分は何者なのかとか、自分探しというものが以下に不要で、不毛なものなのかって思える。だって、そんなの、ないでしょう。ないんだから、適当にそばにあるものを使って、コンビニバイトしかやれる仕事がないなら、「コントコンビニ店員」やればいいんじゃないですかね?

「自分に合った仕事」とか「自分という人間はこう」とかって、別にないですよ。それは信じる心をもてるかどうかってだけの話で、最適な答えとかないですから。そんなの探すの、かったるくないですか?

たとえば「世界一周」をしたら何かが得られるわけじゃない。世界一周をして何かを得た人だけが「世界一周をしたら何かが得られる」と言うだけです。

人間なんて、社会に出て、大変な想いをする「キャラ」みたいなもんだと思うんですけどね。

どうも、くいしん(@Quishin)でした。読んでくれた方ありがとうございました。ツイッター(@Quishin)はフォローお気軽に!