複数の人に「『1998年の宇多田ヒカル』が面白いよ、読んだほうがいいよ」と言われ、ついに昔からの友人である女性編集者に「読んで!」と言われたので、買ってきました。どうも、くいしん(@Quishin)です。
偉大な文系(メディア人)が自分たちの都合のいいように歴史を書き換えていってしまう
見出しは著者が荻上チキさんのPodcastで言ってた言葉です。
腑に落ちまくったのが、「過大評価されている渋谷系」というくだり。90年代から20年経った2010年代である現在でも、メディアでは渋谷系が再評価されるばかりで、宇多田ヒカル・椎名林檎・aiko・浜崎あゆみが語られることはない、というお話。
そして、「本質的にはアンダーグラウンドのムーブメントだった」というのが著者が書く渋谷系です。
これにはかなり深く同意し、唸りました。90年代の絶頂期でも、渋谷系は、宇多田ヒカルや浜崎あゆみの1/10程度のセールスしかなかった。
でも、
2010年代に「90年代の音楽」というと、カルチャー誌を始めとしたメディアでは、渋谷系ばかりが絶賛される。
で、僕が今日このエントリで言いたいのは、逆に言うと、ここを抑えれば10年20年が経っても、ムーブメントを文化として残し続けることができるんじゃないかというお話です。
もう少し僕ら世代にとってもわかりやすいたとえを出します。
たとえば、映画『モテキ』では98年にメジャーデビューしたくるりのデビューシングル曲である「東京」が重要なシーンで使用され、B’zは「カルチャーを追ってなくて『進撃の巨人』も知らない女がカラオケで歌ってる曲」として扱われるわけです。
もちろん、これはB’zがいい悪いという話ではないのですが、少なくとも『モテキ』の主人公は、カラオケでB’zを歌う女性をそうやって扱うわけです。そして事実として、2016年現在も映画業界の最前線で戦っている大根仁監督は、そういう世界を描いたということです。
あくまで一例ですが上記を踏まえると、10年後20年後には、くるりは音楽好きの間で語り継がれ聴き続けられ、その影響を受けた若いミュージシャンやバンドがたくさん出てくるのに対して、B’zはあまり聴かれることはない、なんてこともあるかもしれません。
セールス的な数字ではなく、「刺さった深度と総量」によって、歴史に名前がどうやって残っていくか、決まるんじゃないだろうかというお話です。
僕がたびたび話す「バンプオブチキンはコアな音楽ファンにまずその存在を知らしめた上で、マス層へのプロモーションを進めていった」という逸話も同じことだと感じてます。
参照:インターネットに対する根源的にいやなこと #HyperlinkChallenge2015 #孫まで届け
映画監督や雑誌編集者といったメディア人が歴史を綴る
このお話も引き続きPodcastで出てきた話なんですが、歴史とは、そのあとどうやって書かれるか、どこの文脈をどれだけどうやって掬い取るか、によってまったく違ったものになります。で、その「歴史を綴る・書く」のは現代ではメディア人なんです。
いい大学を出て「メディア人」になるほとんどの人は、メディアのことをやはりよく知っていて、つまり「コアなファン」であることが圧倒的に多いということなんですね。だから先に挙げた例で言えば、B’zではなくて、くるりのように音楽をつくったほうが歴史に名を残し続けることができるんじゃないか、と考えられる。
その上で、自分がつくりたいものは、どういったものなのかというのを改めて考えてみたいなあと思った次第です。
どうも、くいしん(@Quishin)でした! 最後まで読んでいただいた方、ありがとうございました!